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おおきなみなとの日々帖

食、本、冷えとり、味のあるカッコイイ役者さん、嵐さんに甘いけれど、日常がいちばん好き。

石井桃子さん著『家と庭と犬と猫』。

読書まわり。

https://www.instagram.com/p/BHL91BxgoXC/

稲垣さんの新刊を早く読みたいのだけれど、長野で出会った石井桃子さんの本が予想以上に力強くて素晴らしくてもったいなくてはかどりません。 カバーをはずした表紙も味わいがあります。 


石井桃子さん著『家と庭と犬と猫』より 
    ほんとにむりもないことだが、農村の多くの若い人たちは、いまの生活からにげだして、「らくな、おもしろい」大都会へ出たいとあこがれる。そして、そこに住んでいる人たちは、映画をしょっちゅう見るために、電気冷蔵庫をもっているために、じぶんたちよりえらいのだと、なんとなく錯覚してしまう。
    けれど、学校のことよりも映画のことにくわしい学生や、電気冷蔵庫をもっているおくさんが、農村の人たちより、えらくもなんともないことは、だれにだってはっきりわかる。
    農村の人たちの反省をうながすためというより、都会に住む私たちの自戒にしたいからである。なぜかというと、私たちも知らず知らず、いつのまにか、この「文化生活」にひたって、音楽会に数多くいき、画家の名まえを多く知っている人間のほうが、えらいようにうぬぼれがちだからである。
    農村のおよめさんは、私たちのために米や麦をつくってくれるけれど、私たちは、その人たちに、ほとんど何もしてやっていないことのほうが多い。
    都会では、なんというわざとらしいことがおこなわれているのでしょう。鳥の声をきき、けものといっしょに暮らして来た者の耳には、みんなうそにきこえます。
     私にとって、何ものにもかえられない、ありがたい四年の農村生活だった。それは、私たちの文化生活が、何をふみ台にして、できているか教えてくれた。

これを60年前に書かれていたというのがスゴイ。

庶民の我慢が何も実を結ばなかった、切なくて苦しい戦時中を描いている『とと姉ちゃん』を見ながら、食べること、日々のささやかな暮らしに勝るものはないなぁと思うこの頃です。

そして60年経っても、根本的にはこういう豊かな考えが浸透していないこともスゴイ。

    目のまえにあるたくさんあるものは、人間は、大事にしなくなりがちだ。そこで、このごろは、本もまるで消耗品のようなありさまになってしまった。
    読んでも読んでも、ちっともおなかにたまらない。読んだつぎの日は、忘れてしまう。本が、こういうことになっては、かなしいと思う。
    私は、元来、巾のせまい人間で、清濁あわせ呑むというわけにはいかないので、じぶんでもこまったものだと思っているけれど、こんな人間にとって、自分と波長のあう友人、波長のあう本を見出したときの喜びは、また格別である。
    虫がすくとか、気が合うとかいうよりも、もっとほかに、人間には、まだわかっていない科学的な法則ーたとえば、体質とか、気質とかで、ぴったり理解しあえる人間とか、物の考えかた、感じかたがあるような気がする。このじぶんの波長を、ほかの人のなかに見いだすことが、人生の幸福の一つなんではないかしらと、私はよく考える。
   本を片っぱしから、ぽんぽん読みすてるくせがついてしまうと、そういう本にめぐりあっても、気がつかないで、いきすぎてしまうのではないかしら。

移り気気質な私が、誰かと競うわけでもないのに一冊でも多く読みたいと読み漁ったり、音楽や映画、はたまた異性関連に忙しくてガクンと本を読まなくなったり、スタイルは変化しながらも、小さな頃から唯一手放すことなく仲良くしているのが本で、「波長のあう」本とめぐりあう喜びにはずっと恵まれています。

ここ数年は積読本がわんかさあって、来月も増えるのは確実という、本との蜜月期間です。

こんなにも波長のあう石井桃子さんの本にふとめぐりあった喜びは、向田邦子さんの本にであったときを彷彿させる大変な喜びでした。

この喜びをかみしめて、石井桃子さんを慌てず騒がずひたろうと思います。

もう一冊買ってしまいました。

みがけば光る

みがけば光る

家と庭と犬とねこ

家と庭と犬とねこ

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